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読売新聞の感想

読売新聞を読んで思ったことを書きます。

2016年11月1日の読売新聞の感想

時代の証言者 エイズと闘う 満屋裕明3⃣

 エイズの薬を開発した研究者 満屋裕明さんのこれまでを語るコーナー。満屋さんは、熊本大学を卒業して医師として患者を診察しながら免疫の研究をしていましたが、教授の勧めでNIH(アメリカ国立衛生研究所)へ留学します。今回は、NIHの研究環境について書いてあり、驚きました。良い意味で。

 当時の日本では

 ①実験に使う試薬をアメリカから取り寄せるので手に入れるのに1,2か月かかる。値段も4倍ほど

 ②実験器具のピペットやフラスコは洗って加熱滅菌→冷却が必要

 ③培養液はフィルターでろ過して調製する(2日前から準備する)

という手順が必要でしたが、NIHでは

 ①アメリカなので試薬が来るのが早い

 ②器具は使いすて

 ③培養液は無菌の瓶に入れてNIH地下のスーパーで販売。さらに必要な酵素試薬も自販機でコーラのように購入可能

 自分の経験からいうと、現在でも日本では器具は使い捨てではないし、培養液も自分で作っています(大学だからかな?企業やちゃんとした研究機関なら違うかもしれません)。海外の先進的な大学には、テクニシャンがいて、実験に必要なものの準備はやってくれたりするそうですし、フラスコなどは使い捨て、もしくは洗う専門の人がいるそうです(聞いた話なので別に一般的ではないのかもしれませんが)。考え方としては、「研究に従事する人の時間はフラスコを洗う時間よりも貴重で価値がある」というような感じだそうです。

 満屋さんは、この環境で日本では3日で1回の実験であったところを3日あれば6~9回もできて論文もたくさん出せたと書いています。これほどの環境はNIHだからこそではあると思いますが、それにしてもうらやましい気持ちになりました。まぁ自分はもう研究してないのでうらやむ立場でもないのですけど。

 

臓器移植 伸び悩む日本

 日本では臓器移植の件数がかなり少ないそうです。国際移植学会が2008年「イスタンブール宣言」として、臓器移植はなるべく国内で、その国の人同士で行いましょうという指針を示したそうですが、日本人は依然として海外での移植が多いそうです。数字で見るとかなり圧倒的で、スペインを筆頭としてベルギー、アメリカ、フランスでは100万人当たり25人以上のドナーがいる一方、日本は0.7人と非常に少なくなっています。

 ただ、やはり臓器移植という術式の性質上、問題が多いそうです。たとえば、1968年の和田移植事件というのがあります。これは臓器提供者の脳死判定に不透明さがあり、執刀した医師が殺人容疑で逮捕されるという事件です。ほかにも子どもの臓器提供では、その子の死に「少しでも」虐待の可能性があれば臓器移植は不可能という縛りがあるそうです。さらにもちろん、臓器移植は脳死や死亡直後の臓器が必要なため、医師も感情的に勧めがたいという問題もあります。そういった事情でドナー数が少ないのが日本の現状だそうです。

 とはいえ、改正臓器移植法が施行された2010年から16年まで、脳死での臓器提供者の数は増えているというデータも記事にありました。(2010年30人ほど→2015年55人ほど、2016年10月末現在で52人)

 現状そこまで進んでいないけど、少し仕組みを工夫すればきちんと機能するようになるのではないかなぁという印象を受けました。

 

 変わる大学のミス・コンテスト

 大学のミスコンの現状を知らせる記事。セクハラに当たるといった声があったりどこかの大学のミスコン運営本部が不祥事を起こして中止になるなどの問題も見られる中、今の潮流を紹介しています。

 関西大学のミス・ミスターコンでは、商店街の飲食店を男女ペアになって食レポすることで地元への貢献を兼ねたPRをしているそうです。日大芸術学部では、ミスコンの応募者に性別の枠を取り払い、男女を同じ土俵で戦わせたそうです。長縄跳びや箱の中身はなんじゃろなゲームでのリアクションなど多角的な評価軸を用意したといいます。大阪大学では、「容姿を判断基準にするのはセクハラだ」との指摘を受けたことから内面の魅力に焦点を当てたコンテストが開かれるそうです。

 このようなミスコンのあり方について、一橋大学特任教授で臨床心理士の方は次のようなコメントを寄せています。言いたいことがあるので全文引用します。

個性や能力を重視するといっても、外見も審査対象とするなら、女性の商品化につながるという点で従来のミス・コンテストと変わらない。外見は一切関係なく、例えば弁舌、表現、リーダーシップ、問題解決などの力が優れているかを競わせる方が、その大学らしさを一番持つ人を選ぶ本来のコンテストではないか 

  僕はミスコンのようなものは全然面白く感じないのですが、このコメントのようになるとさらに面白くなくなると思いましたし、それならやらないほうがいいとさえ思います。いわゆるポリティカルコレクトネスというやつだと思うのですが、ある分野における圧倒的な力を封殺しようとする動きには違和感を禁じえません。こんな風に「外見の美を競うことそのものがおかしいです」と言ってしまったら、それを強みにしたい人の機会を奪うことにはなりませんか。それは本当に平等なのですか。芸能界というものが存在して、それが大きな経済を作っていることはどう考えているのでしょうか。

 外見の美は生まれつき決まっていて、努力が関係ない「気がする」から批判しているということはないでしょうか。弁舌や表現、リーダーシップを競うというのは、訓練で身につく「気がする」から言ってるだけでは?なんでどれだけ足が速いかとか、どれだけ重いものを持てるかとかは言わないのでしょうか。

 美しさを維持することには、気を使わなければならない部分も多々あるだろうと思いますし、なにより参加者は志願して参加しているわけです。そこをしてコンテストの存在そのものが最悪、みたいな感情論をおかしな理屈で固めたつまらない意見を当てるのは変だと思います。生まれつき優れている部分を競争に使うのは良くないという主張をするのは弱者の負け惜しみのように見えて逆にかっこ悪いと思います。

 それと、その大学らしさを~などと主張するのであれば、大学豆知識クイズ大会を開けば大学らしさがにじみ出るのでは。全く面白くないと思いますけど。

 そして最後に、このコメントのように努力すれば身につく「気がする」ことばかりを評価軸にする動きが極端になれば、「評価が低いのは努力が足りないからですからもっと努力しなさい」と言われて声もあげられずつぶれていく人がたくさん出て最悪な世界がやってくるとさえ思います。

 

おわりです。